鯨組主・益富家が奉納した石鳥居
市指定有形文化財「鯨組主・益富家が奉納した石鳥居」 Vol.13
生月島壱部にある白山神社の二の鳥居は、高さ4.2m、笠石の幅5.6mの大きな明神鳥居形式の石鳥居で、銘文によると益冨家の第4代当主・又左衛門正真が、寛政5年(1793)に建立したものです。
また、同じく壱部浦にある住吉神社にある鳥居も、高さ3.5m、笠石の幅4.8mの明神鳥居形式の石鳥居で、銘文によると益冨忠左衛門正昭が寛政9年(1797)に建立したもので、忠左衛門とは益冨家第3代当主・又左衛門正昭の隠居後の名前だと思われます。 これらの鳥居には、白っぽい瀬戸内海地方産の花崗岩が用いられています。江戸時代の平戸地方の石鳥居は、鷹島産の黒っぽい玄武岩(阿翁石)で作られるのが一般的でした。花崗岩は硬く加工技術も特殊なため、現地で加工され生月に運ばれたと考えられます。
寛政11年(1799)、土佐藩士の大津義三郎が西海捕鯨の視察に訪れます。当時の西海は日本でもっとも進んだ捕鯨漁場で、彼は各漁場を回り、その内容を報告しています。それによると、当時の西海漁場(長州藩領を除く)には標準規模の網組(三結組)でおよそ13組が操業していましたが、うち4組が生月島を本拠とする益冨組の支配下にあり、また、同数の組を壱岐勝本を本拠とする土肥組が支配していました。益冨組と土肥組は、ともに18世紀初めに鯨組を興したいわば後発組で、当時最良の捕鯨漁場だった壱岐の前目(芦辺沖)、勝本両漁場の支配を巡って争いますが、元文4年(1739)に平戸藩の仲裁で、両漁場を年交代で使用する形に決着し、ともに好漁場を得た事で両組の経営は安定します。 その後19世紀に入ると、益冨組は土肥組を圧倒して西海捕鯨の主導権を握り、1820~1830年代には壱岐漁場をすべて支配下に置いて、5組を経営する日本最大規模の鯨組になりました。
白く輝く石鳥居は、上昇期の益冨組の威勢を今に伝えるモニュメントなのです。
名称 | 白山神社二の鳥居 住吉神社鳥居 |
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種別 | 市指定有形文化財 |
所在地 | 生月町壱部、壱部浦 |
指定年月日 | 平成13年11月 |
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